2011/03/13

the huge earthquake hit Japan

3月11日午後2:45頃
国内最大の地震が東北関東地方を襲いました。

私は約2週間前から里帰りをしており
地震当時は一人で旧実家にいたのです。
出かけようと準備をしている最中の出来事でした。

ものすごい揺れが一揆に!!震度5強だった様です。
揺れている中靴を履きジャケット来て玄関から外に出ようと思った瞬間
目に飛び込んできたものは外全体が灰色に見える程電柱さえ揺れていた。。
片足出しながら『怖えー!』って言いながらどうしていいのか分からず。
向かいの家のネコが大揺れの中全く動じない様子で外を見ていたのが印象的。

揺れてる時間は1分近くあったのかな。
震動が緩くなり慌てて部屋に戻りテレビを付け状況をチェックした。
携帯で親にかけても全く発信できず。。
ハンドバック1つに必要な物をまとめた。
その間も何度も揺れてた。。

海の近くの人は避難を!と報道が流れ、
フジテレビの裏のビルから火災、
東北のテレビ局の映像で『津波でしょうか?あれは津波でしょうか?』
とレポーターが叫びながら静かに港に入り込んで来る波が見えた。
でも今思えばその時の情報は本当に少なかった。
地震後1時間経過し、揺れの間隔も広くなり、
窓も玄関も全開だけど近所の人はいる気配無いもんで
とりあえず一人でいるのが怖くて電話も通じないし
行こうと思っていた市役所目指して運転し出したらスゴイ渋滞。。。
ここで時計は5時5分前。
市役所には到底間に合う時間ではないと気づいた渋滞中の車内で第一報
『非通知着信』
父からだった!公衆電話からみたいだ。
こういうつながりづらい時は公衆電話が強いんだって!!!

運転中だと言ったら激怒
『お前だけが全然連絡取れなかったんだぞ!こんな事態にどこにいるんだ?今スグ家に戻れ!と。』
この時は事態のデカさに全く気づいてなかった。。

帰りにどうしても一人になりたくない私
電話は一切発信できないため一人でファミレスに立寄ご飯を食べてる最中も2度地震。
ウエーターもお客もいるから少し落ち着くけど
父に言われた『家にいろ!』の言葉が気になって家に戻った。
pm6時、辺りは段々暗くなって来ていた。

家に戻りエアコンこたつテレビをつけて情報チェック
コノ時点でテレビから入る情報は少し広がっていた。
両親のいる実家は私のいた旧実家から高速で1時間半ほど離れてる。
電車は完全に止まっていて高速道路も通行止め。
そして親のいる地域は停電。。。

pm9時になりお腹が空いてきたがまだ私の携帯は発信できず、
デリバリーを頼もうとのんきな考えだった。。。
ちょうど妹から連絡が来て両親といるようで食材を調達しに車で動くと伝えて出た。
軽い揺れは続いている中今後の災害に備え浴槽に水をたっぷりため、
いつでも親の元へ帰れる準備をしておいた。

だんだんとテレビで火災や津波などの被害の情報が届き
事態の大きさに気づき出し余震も続いていて夜が深くなるにつれ恐怖は高鳴る。。
一人では想定寝れる状況ではない。

深夜0時、母親から連絡が入り、やっと電気が戻り高速も通れる様になり渋滞もしてない様だし
家族は固まっていた方がいいと言われ車を飛ばして親の元に戻った深夜2時。
家族と会えて本当にホッとした。
テレビをつけたまま少し仮眠をとろうと思っても
地震警報がガンガン鳴り余震は続いた。。

私は学生の頃救急救命の資格を取った時、
震度6を地震車で経験した事があった。立つ事はできなかった。
この震度5強の時はドアにつかまりながら必死に立っていた。

岩手県に住んでいるアメリカ人の英語の教師の友達が心配だった。
彼の住所の場所は被害が大きかった。
不安で不安で岩手県警に連絡とっても被害が大き過ぎて手がつけれていないと。。
避難している事を心から願い、
アメリカに住んでいる家族とも連絡をとりながら夜も眠れずに彼を必死に捜し続けた。
3日目になった今日岩手県宮古市の避難所にいると一報が入った!
本当に本当に安心した。

計画停電、ガソリン不足、食料不足、電車や高速の制限など
これから全国で多少の不便は続くと思うが、
テレビで流れている被災地は悪夢でそんなことはへでもない!
一刻も早く生存者の救出、避難者の健康、原子炉問題....等被災地の復旧に努めてほしい☆

国内の情報がとても遅く(パニックを起こさない為なのであろうが)困ります。
正確に早く国民に伝えてほしいものだ。

私はこんな時期に里帰りをしていて人々は災難だと言うが、
私はこんな時だからこそ家族のそばにいれるコトを光栄だと思っている。